東求堂と同仁斎の名前の由来

はじめに 

銀閣寺という通称で呼ばれる東山慈照寺、ここは室町幕府八代将軍 足利義政が晩年、別荘として建てていたところがのちに寺院となったものである。

 

足利義政が自身の隠遁生活を送る場所としてつくったのが東求堂である。

そして東求堂にある自身の書院、同仁斎。

その東求堂と同仁斎という名前の由来について少し書いてみた。

 

ちなみに、だいたいはwikiなどネット上の情報をまとめたもののため、googleなどで検索したほうが詳しいし、正確性も保証はできない。

 

 

 

東求堂

 

東求堂と同仁斎という名前は、義政公が名前を決めるにあたり横川景三(おうせんけいさん)という臨済宗の禅僧であった人物に候補を挙げてもらい、その中から義政公地震が選んだのだという。

 

横川景三という人物も、五山の送り火の大の字は彼の筆跡だという説があったり、掘り下げれば面白そうな人物である。

しかし、ここでは義政公のサロン(文化人の集まり)の一員であったということだけ述べておこう。

 

東求堂は六祖壇経(六祖大師法宝壇経、壇経)という仏教の経典に書かれている「東方人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」から名づけたそうだ。

 

「迷人は仏を念じて彼(かしこ)に生ぜんことを求む。

東方の人は、罪を造れば、仏を念じて西方に生れんことを求む。

西方の人は、罪を造れば、仏を念じて何れの国にか生れんことを求めん。」

 

難しいが「浄土は東西の場所によらない。」「悟った人はどこにいても同じ。」といった禅問答の一部のようである。

 

義政公の想いとしては東求堂は、東方だとか西方だとかではなく此処で悟りを求めようという意味合いの場所なのだろうか。

 

 

東求堂には前に蓮池があり、また阿弥陀三尊が安置され,また仏間の障子には狩野正信の十僧図が描かれている。

そのあたりを踏み込んでいけばより義政公の考えに近づけるかもしれない。

 

 

同仁斎

同仁斎の「同仁」は韓愈の「原人」の「聖人一視而同仁」からのようだ。

これは「一視同仁(いっしどうじん)」という四字熟語にもなっていて、「すべてを平等に慈しみ、区別なく接すること」といった意味である。

「斎」は「心静かに読み書きする空間」、「心を清め神をまつる」といった意味である。

つまり同仁斎とは「みな平等に心静かに読み書きする空間」という意味合いであろう。

 

 

もう少し深く踏み込んでみるために「聖人一視而同仁」について意味を考えてみる。

韓愈(かんゆ)は768年生まれの中国の唐中期の文人であり、儒教中心主義を主張していた人物である。唐宋八大家の一人。

古文の復興、儒教の復興といった観点から、「原人」「原道」「原性」といった著書を残している人物である。

※唐宋八大家とは古文の復興を図り有名となった唐代から宋代にかけての8人の文人たち韓愈、柳宗元、欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曾鞏、王安石のこと。

 

 

「聖人一視而同仁」は、そのなかの「原人」の「是故聖人一視而同仁,篤近而舉遠。」というところからである。

もう少し書くと

   天者,日月星辰之主也
   地者,草木山川之主也
   人者,夷狄禽獸之主也
   主而暴之,不得其為主之道矣
   是故聖人一視而同仁,篤近而舉遠

                    」

 

天は太陽、月、星、星座の属するものの主をなすものである。

地は草木、山川の属するものの主をなすものである。

人は禽獣夷狄の属するものの主となすものである。

(※禽獣夷狄……中国からみた異民族の蔑称。「禽獣」は鳥、獣、「夷狄」は野蛮な人のこと。)

主たるものでありながら属類を害するということは、主たるものがすべき道を正しく行わないということである。

このゆえに、聖人は禽獣夷狄の属するものもみな博愛の情をもって同一に見て、身近なものに手厚くし、遠くのものにものこらず及ぼすようにするのである。

 

さらに意訳すると

「天は太陽、月、星などの主(あるじ)である。

地は草、木、山、川などの主である。

人は獣や蛮族などの主である。

主がそれらに害を与えるということは、主としてやるべきことを正しくしていないということだ。

つまり正しい人は獣や野蛮なものに対しても、愛を持って自分と同様に扱い、近くにいるものには真心をもって接して、遠くにいるものにも隅々まで行き届くようにするものだ。」

 

「一視而同仁」とは、何物も自分と同一のものと見る、という意味である。

他者や獣を自己同一視するということ。

 

今風に考えると例えば戦争や貧困に見舞われている人々の苦しみも自分の苦しみと考え、愛をもってそのことを向き合うといった感じだろうか。

韓愈はここまで広い意味合いは持たせていなかったかもしれないが、義政公やこの言葉を候補に挙げた横川景三は禅の思想と絡めていたに違いない。

義政公が選んだ「同仁」という言葉からは、単に区別なく接するというよりは、そこに無限の愛、仏の心さえ感じる。

 

 

おわりに

ここまで書いてきて思ったのは、義政公は東求堂の同仁斎という場所で心静かに、すべてのものを愛し、瞑想に近い形で書画に没頭することで悟りへの道を追求していた(あるいはしたかった)のではないだろうか、ということである。

 

ただ、あまり深読みせずに考えれば、

「洋の東西問わず、また貴賤有名無名も問わず、才あるものは輝くべきであり、そのための場所」くらいの意味しかないのかもしれないが。

 

いずれにせよ、東求堂と同仁斎について考えていると当時の義政公の想いは、恐妻として名高い日野富子や、後継争い、応仁の乱などから離れ、文化人として心静かに暮らしたかったのだろうなということが察せられる。

 

東求堂、同仁斎をつくり過ごしていた頃の義政公の心境を想像しつつ、銀閣寺を拝観してみるのもまたおもしろいだろう。

 

 


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